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旅、ごはん、歌、臨床心理の勉強など興味のあることと、考えたことの記述

ルージュマジック

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思うところあって、メイクアップ講師のような人に、メイクをしてもらった。


事前にアンケートみたいのがあって、どんな感じがいいか?ということだったので


ナチュラルに


と答えた。


メイクをしてもらって、家に帰ると、いけないルージュマジックの坂本龍一みたい。。。怖い。


と言われた。


なんやねんルージュマジックて!


と思い画像をみるとこういうのだった。


姉にも自撮りを送ったら、きつい感じになってる、いつものほうがいい!とのこと。


次回、講師にはこれらのフィードバックを伝え、ルージュマジックの世界からは遠ざけてもらいたいと伝えよう。


しかし、これはこれで面白いので坂本龍一だけでなく忌野清志郎にも挑戦して、また家族を怯えさせてみたい。









ある紅茶cafeについて

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大丸の近くにある紅茶カフェ

古いビルの二階

割と広いワンフロア

窓が大きく開放感あり

ソファあり

 

ここで飲むのは、ホットミルクティ。

 

ここの紅茶は

 

1. 濃い

2. 差し湯がついてくる

3. ミルクもたっぷりついてくる

 

2ヶ月に一回くらい

ここにきてお茶を飲み

息をつく。

 

年に一回くらい

ちょっと遠くからきた人とか

初めて2人で話す人、みたいな

だれかとゆっくり話したいときにも、来る。

 

私は差し湯も全部紅茶にして飲むので

まあ3杯くらい、飲む。

 

ケーキは素朴で

生クリームがほどよくぽてっとしており

ほどよく甘く

オレンジやチーズケーキなどは、ほどよく酸っぱく

まあ、私にはわりと丁度良い。

 

店員さんってどのくらい、お客さんの顔を覚えているものなんだろうか。

できれば覚えられないでいたいのだが、無理だろうか。

 

 

SSちゃんからの手紙

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大学を卒業し、保育所で働き始めて2年目くらいの秋に、

姉Sちゃんが第一子を出産した。

 

Sちゃんは里帰りしてきてて、前日夜に旦那さんと一緒に病院へ行ったのは知っていたんだけど、朝起きたら生まれたと連絡があったということで、私は出勤前にその病院へ寄った。季節は今くらい、秋。午前7:00前だったと思う。

 

Sちゃんと赤ちゃんはまだ分娩室にいて、なぜか看護師さんが待ってましたとばかりに「はいはいはいこっちこっち」と通してくれたので、分娩室で横になってるSちゃんと赤ちゃんに会うことができた。Sちゃん(姉)はきらきらしていた。その赤ちゃんはSSちゃんと名付けられ、たいそう美しく賢い子どもであった。

 

私はSSちゃんと親しくなった。いちどだけケンカをしたこともあるのだが(それは彼女が2才頃のこと、原因は、わらびもちであった)。保育所に勤務しはじめてからというもの、自我状態の一部がはっきりと幼児に同化しつつ成長し直す過程を辿っていた(奇妙な体験であるが、最初の3年間は本当にそうだった。ちゃんと大人の私が仕事はしていたのですが)私にとっては、SSちゃんは姪でもありながら、とても気の合う友達という感じになった。

 

そのSSちゃんが、5才くらいのとき、家族の都合で外国に引っ越した。

まだ引っ越して間もない頃、頭の上に麦の穂を持った男の子と女の子の絵を描いて送ってくれた。左利きの彼女は、右から左に手紙を書いたようで

 

かすできんげわちにんこ 

さだくてくおおんどう

てくろしもおわんえす

すでょしばみすいい

 

という文章が添えられていた。

これはつまり

1 元気ですか?

2 うどん送って下さい

3 面白くていい住み場所にいます

 

ということを言っているのだった。彼女は想像力も創造力もたくましいのだが、同時にとてもプラクティカルな人間なのだ。

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(麦の穂と男と女:SS画)

今考えるとあの麦も、うどんのことを想って描いたのかもしれない。

 

 

 

 

腰の療術のついでに小顔

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R君が千種川の近くにある、池上療術院に連れていってくれた。

 

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今回腰が痛かったんですが、池上先生はどこが痛くて行っても足の先から触る。話が面白すぎてゲラゲラ笑いながら療術を受けた。最近、まっすぐ座れなくなってたんだけど、終わったらちゃんとまっすぐになっていた。池上先生が言うには骨盤もほお骨も出てきてた(不健康の兆しらしい)ので、ついでに小尻・小顔にしとくわ、とのこと、多少小さくなったのだろうか。

 

何か、写真の位置がおかしいけど。帰りに笹の葉の匂いがするうどんと川魚を食べました。

 

勉強しないといけないと思いながら温泉につかり、リラックスルームでも勉強の本は出さずに「美味しんぼ」を2冊読みました。

 

全然勉強しなかったけどいい1日でした。

 

 

 

 

 

痛さのスケール

 

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今日はアートの時間に担当の子どもが、カーペットの段差につまづいてコケた。

 

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表出言語が弱い人は、痛い、休憩したい、しんどいなどのときにも、単に言わないだけでなく、自覚症状からして乏しいというか、爆発してしまう直前まで感じられないようなことがある。

 

なので、やはり、感覚やその度合いにも、分かりやすい名前をつけて教えていく。

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ナースに行って見てもらって、ひとまず大丈夫そうなので、その後、痛さのモニタリングを教えるチャンスとして活用させてもらった。

 

まず

 

th「どこが痛い?」

子は、無言で、自分のひじと、ひざをさわる。

 

th: ああ、そうか。じゃあ「ひざと、ひじが痛いよ」やね・・・

→ホワイトボードにひじ、ひざのワードと絵をかき、すぐもう一度聞く

th:どこが痛いの?

ch「ひじと。ひざがいたい」→そっか、教えてくれてありがとう。

 

th: ひじは、どのくらい痛い?0が全然痛くない、5が痛すぎてどうしようもないくらいだったら、0から5で?→ホワイトボードにスケールを描き、見せる。

→子、4を指差す。

th:そっか、「ひじが4くらい痛いよ」やね。

→ホワイトボードに「4」とかいて、すぐまた聞く、

th: ひじは、どのくらい痛い?

ch「ひじが、4くらい痛いよ」そーか4か、教えてくれてありがとう、けっこう痛いねえ。こおりもらってきて、冷やそうか?

 

それから、ひざはどれくらい痛い?

ch「ひざも4くらい」

 

でも言って気が済んだようで、氷はいらなかったみたい。

 

お帰りの準備のとき(忘れた頃)、もう一回きいたら、うん?と考えていた。どのくらいかな?と感じようとしていた、というのか。ひじの痛さは4.99、ひざは0になっていた。

th:おお、ひざはもう痛くないんやー、でもひじは、もっと痛くなってるんやね、って言うと、

ch:そうそう。って。

 

彼は今日はころんで泣いたけど、

「痛みにも度合いがあるなあ、変わっていくなあ」ってことにも、ちょっと新しく気づいたみたいだった。

 

言葉を使ったコミュニケーションは、人と繋がりをつくるためだけではなく、他者と言葉を交わすことを介して、自分の状況やニーズがよりよくわかる、という効果もある。

 

しかし、誰かが

「お腹すいたね。」と言ったとき

→0がまだ半日くらいは食べずにいける、5が意識が朦朧として食べ物の幻覚が見えるほど、ってゆーたらどれくらい?

 

とか

「君のこと、好きだよ。」って言われたとき

→0が全く興味ない、5が今すぐ結婚したい、でゆーたらどれくらい?

 

なんていうことを言ってたら、

まあそのうち、話しかけてくれる相手が減るだろうなあ。

 

ひっかかる名前

勉強したり本読んだりしているとときどき

ひっかかる名前があります。

 

ひっかかる名前は、その人の提唱した理論や内容よりもまず名前だけが記憶にひっかかって突然言いたくなったり、本に出てきたとき、名前が気になりすぎて内容が入って来ない名前のことです。

 

特に最近ひっかかるのはこの二人です。

 

1.ミハイ・チクセントミハイ

2.三隅二不二

 

1はポジティブ心理学の人です。ポジティブ心理学とは?というような本の、論文の引用で何度も名前が出てきました。その本を読んでいる間は、寝る前やコーヒーを飲んでいるときなど、別のことをしているときに「みはいちくせんとみはい」という無意味言葉(本当は有意味なのだが、私にとって、そのときは無意味だった)が何度も浮かぶようになってしまいました。

 

ときどきは「みはいちくせんとみはい」とつぶやいてみたり、人がいなければ、階段の所で立ち止まり少し大きい声で、「みはいちくせんとみはい!」と言ってみたりしたものです。。。

 

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結果的にこの人は、私に「フロー」という言葉を教えてくれました。

時間を忘れていい仕事ができるような状況が「フロー」です・・・TEDの動画もあるみたい。時間はかかりましたが、ちゃんと有意味言葉に昇格しました。

 

2.三隅二不二先生の読み方はみすみじゅうじ先生、だったと思います。社会心理学者です。最近、やっとPM理論(リーダーシップをPerformanceとMaintenanceの2つの側面から評定できるとしたもの)とひもづけて覚えました。

 

けど、それまでは「藤子不二雄」「みすみじふじ」「重箱の隅」「3.2.2」というように、その名をきいても、無駄な連想ばかり思い浮かんでいました。

 

自分でも本当に気が散りやすいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

The Red Turtle

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子どもの頃、絵本の中の、ある1枚の絵をずっと眺めているのが好きだったような人がいたら、ちょっと観てみてほしい映画です。

 

映画を観終わって、私が考えたこと。

 

人生が主体的に回り始めるのは、誰かのために生きるようになってからなのかもしれないということ。

 

また、どこに行くとしても、他者と比べてどれほど豊かな暮らしをしていようとも、環境に対し人間は不自由で受動的なものであることと、同時に精神の面においては自由であるということ。

 

また、出会いというのも、ぴかぴか光る竹の中から赤ん坊を見つけるのと同じように、探すものでも選ぶものでもなく、雨が降ってくるように、受け取るものであるということ。

 

女というのは、強くて、弱くて、無防備であり、それ自体が生きる意味を求めるものではなく、生きる意味を与えるものであるということ。そして、生きる意味というのは、本当に、本来生きるための活動、「生活」であるのではないかということ。 

 

かぐや姫ではなくThe Red Turtleの話なんですが、そのものについて書くと、言い過ぎになるので、観たい人がみんな見終わった頃に、思っていることがあればまた具体的に書きたいです。

 

これは、優れた物語。「普遍的な無意識」と「個人的な無意識」の両方に話しかけてくる。ああ、やはり必要なのは、物語よ。物語なのよ。と思う。

 

ちょっと、近いうちに、もう一度観たい。

 

red-turtle.jp