悲嘆と現実検討について
5月末、勉強会。
H23, 問71
急性の悲嘆反応に対する心理支援に関する記述の正誤。勉強会で話題になったのはB「不条理な死に遭遇したときは、現実検討をしない方がよい」という文について。この文は、×(誤り)である。
つまり「現実検討をする方がよい」、というのが正しい認識だということだ。
これに関して、そんなにたいへんなとき、なぜ現実検討をしなければいけないのか?しばらくは、泣いたり叫んだりしている期間が必要なのでは?という意見があった。
これについては、「泣いたり叫んだり」は、死を現実のものと認めているからこそ起こっている感情や行動であるため、ここでいう現実検討と矛盾するものではない、と考える(「現実検討」の意味については後述)。
しかし・・・それでも現実から目を背けていたいのは当然だし・・・そういう期間も必要なのでは?
「急性の悲嘆反応」というような早期から「現実検討をする方が良い」のはなぜ?
過去問の解説には、詳しく載っていなかった。
そこで、心理学者が自身の悲嘆について扱った「愛する人の死、そして癒やされるまで」や神戸心のケアセンター専門研修「悲嘆の理解と遺族への支援」で頂いた資料などを手がかりに、考えてみた。
悲嘆プロセスに関する理論のひとつに、Worden(2008)「4つの課題モデル」がある。
課題1:喪失の現実を受け入れること(情緒的にも)。
課題2:悲嘆の痛みを消化していくこと。
課題3:故人のいない世界に適応すること。
課題4:新たな人生を歩み始める過程において、故人との永続的なつながりを見出すこと。
・・・この課題1が手がかりになりそう。まずは
そもそも「現実検討をしない」とはどういう状況か?
これは「喪失という現実の否認」を指していると思われる。すなわち「故人の死を認めない(認められない)こと」。
死を頭ではわかっていても、情緒的に受け入れられない場合もある。
それは「死を知った瞬間から、葬儀でも、それ以降も、何年も悲しさを感じることができない、泣くこともできない」という姿となって表れるかもしれない。もしくは、故人の部屋をずっとそのままにしておいたり、その死について語ることがタブーとなったり、夕食を故人のぶんまで用意するなど、まるで生きているかのように生活するなどのやり方で、何年にもわたり、他の家族を巻き込んで否認が続くこともある。
そして、このようなことは「突然の死」や「不条理な死」において、特に起こりやすい。
※事故や災害などで「遺体の確認ができないとき」にも「故人の死を認めること」はたいへん困難となる。この状況は「曖昧な喪失」と呼ばれる。
では次に、
「喪失という事実の否認」は、なぜよくないのか?
これは「事実の否認期間」が長くなればなるほど、悲嘆が長くなる、時期がずれる、反応が強く出てしまうなどのリスクが高くなるためである。
悲嘆は本来、正常反応であり、時間とともに和らぐものである。
これに対して、正常の域を超えてしまう悲嘆を「複雑性悲嘆」と呼ぶ。これは「通常の悲嘆と比較して、持続期間や開始時期、反応の強さが異なり、何らかのケアが必要な悲嘆」と説明されている。
複雑性悲嘆では、苦痛が死別後1年以上続くことがひとつの目安となっている。心理的快復を妨げる要因の一つに「現実を受け入れることの遅れ」があるそうだ。現実検討の先延ばしが「症状の重症化や慢性化」を招きやすいということだ。
いずれにしても痛みを伴うが、せめて 適切な時間と強度の悲嘆プロセスを歩むことが、悲嘆を複雑化させる度合いを少しでも減らすために大切なことのようだ。
喪失の現実を受け入れて初めて、正常な悲嘆を体験できる。泣くことはもちろん、怒り、一時的なうつ状態になることも含めて、故人の死の直後からそれがスタートするということは、然るべきときに回復への道をたどり始めている、ということを意味しているのだ。
(Sad Book ; 悲嘆の状況が描かれている優れた絵本です。機会がありましたら、ぜひ手にとってみてください)
※悲嘆が複雑化するのは、生前の故人との関係など、現実検討以外のファクターもあるが割愛。
※ちなみに、これらの知識があるとしても、例えば「無理にでも早期に現実検討をさせなくてはならない」という問題文になると、これも×(誤り)と考えなくてはならないだろう。極端な、何かを強いるような態度は心理的サポートの態度として、根本的に間違っているからである。こういうヘンテコな問題(盲導犬採用試験の最後の砦と言われる「不服従のテスト」的な?)も本当に出ることがある。(面倒ですが)臨機応変に読みとらないといけない。