腰の療術のついでに小顔
R君が千種川の近くにある、池上療術院に連れていってくれた。
今回腰が痛かったんですが、池上先生はどこが痛くて行っても足の先から触る。話が面白すぎてゲラゲラ笑いながら療術を受けた。最近、まっすぐ座れなくなってたんだけど、終わったらちゃんとまっすぐになっていた。池上先生が言うには骨盤もほお骨も出てきてた(不健康の兆しらしい)ので、ついでに小尻・小顔にしとくわ、とのこと、多少小さくなったのだろうか。
何か、写真の位置がおかしいけど。帰りに笹の葉の匂いがするうどんと川魚を食べました。
勉強しないといけないと思いながら温泉につかり、リラックスルームでも勉強の本は出さずに「美味しんぼ」を2冊読みました。
全然勉強しなかったけどいい1日でした。
痛さのスケール
今日はアートの時間に担当の子どもが、カーペットの段差につまづいてコケた。
表出言語が弱い人は、痛い、休憩したい、しんどいなどのときにも、単に言わないだけでなく、自覚症状からして乏しいというか、爆発してしまう直前まで感じられないようなことがある。
なので、やはり、感覚やその度合いにも、分かりやすい名前をつけて教えていく。
ナースに行って見てもらって、ひとまず大丈夫そうなので、その後、痛さのモニタリングを教えるチャンスとして活用させてもらった。
まず
th「どこが痛い?」
子は、無言で、自分のひじと、ひざをさわる。
th: ああ、そうか。じゃあ「ひざと、ひじが痛いよ」やね・・・
→ホワイトボードにひじ、ひざのワードと絵をかき、すぐもう一度聞く
th:どこが痛いの?
ch「ひじと。ひざがいたい」→そっか、教えてくれてありがとう。
th: ひじは、どのくらい痛い?0が全然痛くない、5が痛すぎてどうしようもないくらいだったら、0から5で?→ホワイトボードにスケールを描き、見せる。
→子、4を指差す。
th:そっか、「ひじが4くらい痛いよ」やね。
→ホワイトボードに「4」とかいて、すぐまた聞く、
th: ひじは、どのくらい痛い?
ch「ひじが、4くらい痛いよ」そーか4か、教えてくれてありがとう、けっこう痛いねえ。こおりもらってきて、冷やそうか?
それから、ひざはどれくらい痛い?
ch「ひざも4くらい」
でも言って気が済んだようで、氷はいらなかったみたい。
お帰りの準備のとき(忘れた頃)、もう一回きいたら、うん?と考えていた。どのくらいかな?と感じようとしていた、というのか。ひじの痛さは4.99、ひざは0になっていた。
th:おお、ひざはもう痛くないんやー、でもひじは、もっと痛くなってるんやね、って言うと、
ch:そうそう。って。
彼は今日はころんで泣いたけど、
「痛みにも度合いがあるなあ、変わっていくなあ」ってことにも、ちょっと新しく気づいたみたいだった。
言葉を使ったコミュニケーションは、人と繋がりをつくるためだけではなく、他者と言葉を交わすことを介して、自分の状況やニーズがよりよくわかる、という効果もある。
しかし、誰かが
「お腹すいたね。」と言ったとき
→0がまだ半日くらいは食べずにいける、5が意識が朦朧として食べ物の幻覚が見えるほど、ってゆーたらどれくらい?
とか
「君のこと、好きだよ。」って言われたとき
→0が全く興味ない、5が今すぐ結婚したい、でゆーたらどれくらい?
なんていうことを言ってたら、
まあそのうち、話しかけてくれる相手が減るだろうなあ。
ひっかかる名前
勉強したり本読んだりしているとときどき
ひっかかる名前があります。
ひっかかる名前は、その人の提唱した理論や内容よりもまず名前だけが記憶にひっかかって突然言いたくなったり、本に出てきたとき、名前が気になりすぎて内容が入って来ない名前のことです。
特に最近ひっかかるのはこの二人です。
1.ミハイ・チクセントミハイ
2.三隅二不二
1はポジティブ心理学の人です。ポジティブ心理学とは?というような本の、論文の引用で何度も名前が出てきました。その本を読んでいる間は、寝る前やコーヒーを飲んでいるときなど、別のことをしているときに「みはいちくせんとみはい」という無意味言葉(本当は有意味なのだが、私にとって、そのときは無意味だった)が何度も浮かぶようになってしまいました。
ときどきは「みはいちくせんとみはい」とつぶやいてみたり、人がいなければ、階段の所で立ち止まり少し大きい声で、「みはいちくせんとみはい!」と言ってみたりしたものです。。。
結果的にこの人は、私に「フロー」という言葉を教えてくれました。
時間を忘れていい仕事ができるような状況が「フロー」です・・・TEDの動画もあるみたい。時間はかかりましたが、ちゃんと有意味言葉に昇格しました。
2.三隅二不二先生の読み方はみすみじゅうじ先生、だったと思います。社会心理学者です。最近、やっとPM理論(リーダーシップをPerformanceとMaintenanceの2つの側面から評定できるとしたもの)とひもづけて覚えました。
けど、それまでは「藤子不二雄」「みすみじふじ」「重箱の隅」「3.2.2」というように、その名をきいても、無駄な連想ばかり思い浮かんでいました。
自分でも本当に気が散りやすいと思います。
The Red Turtle
子どもの頃、絵本の中の、ある1枚の絵をずっと眺めているのが好きだったような人がいたら、ちょっと観てみてほしい映画です。
映画を観終わって、私が考えたこと。
人生が主体的に回り始めるのは、誰かのために生きるようになってからなのかもしれないということ。
また、どこに行くとしても、他者と比べてどれほど豊かな暮らしをしていようとも、環境に対し人間は不自由で受動的なものであることと、同時に精神の面においては自由であるということ。
また、出会いというのも、ぴかぴか光る竹の中から赤ん坊を見つけるのと同じように、探すものでも選ぶものでもなく、雨が降ってくるように、受け取るものであるということ。
女というのは、強くて、弱くて、無防備であり、それ自体が生きる意味を求めるものではなく、生きる意味を与えるものであるということ。そして、生きる意味というのは、本当に、本来生きるための活動、「生活」であるのではないかということ。
かぐや姫ではなくThe Red Turtleの話なんですが、そのものについて書くと、言い過ぎになるので、観たい人がみんな見終わった頃に、思っていることがあればまた具体的に書きたいです。
これは、優れた物語。「普遍的な無意識」と「個人的な無意識」の両方に話しかけてくる。ああ、やはり必要なのは、物語よ。物語なのよ。と思う。
ちょっと、近いうちに、もう一度観たい。
趣味
ある日、担当の子が、ゲラゲラ笑いながら話し出した。新しいゴーストバスターズの話。
子“Then... the ghost...... (思い出し、ひとりでウケて話せない) ...ge bo ha i ta...(ここだけ日本語)”で、爆笑。
私:“Oh, it vomited?”と一応英語で返すと
子:“Yeah, it vo...mited... ウフ、ウフ、ウフ”ってまだわろてる。おもろいんですね。作文にもこの映画について書いてたし、ともかくすんごく面白かったみたいなので、私も観に行くことにした。
楽しめるだろうか?と一抹の不安があったんだけど、変な博士(ビル•マーレイ)が吹っ飛ぶシーンで、私も笑いが止まらんようになった。
あと、びびりなので、3Dでもないのに身をすくめたり、よけたり、頭を抱えたり、また突然ゲラゲラ笑ったりして、アトラクションみたいに楽しんだ。
これまでにも色んな生徒さんのお気に入り(アニメスパイダーマン、スポンジボブ、テレタビーズなど)には目を通してきたが・・・だいたいはこんなんが面白いん?!と思ったり、眠くなったり、早送りしたくなったり、したものだ。
このたび、ジョークの趣味が合うようで、嬉しい限りである。
Lunch in Helsinki
ヨーテボリからの帰り、やけにトランジットが長いので、ヘルシンキの空港でいったん出て泊まった。どんな予約したか忘れてて、ホテルじゃなかったからビックリした。
他の部屋はみんな表札出てて、普通に住んでるアパートメント。ここがリビングで、あとキッチンとダイニング、ベッドルームと広い洗面所、サウナがあった。
熱した石に木桶で汲んだ水、木の柄杓で水かける式。スチームって気持ちいい。これあったら、風邪ひいてても治るやろな。上手に管理できひんやろけど、家に欲しいなあ。
翌朝、街に出て夕方のフライトまで遊ぶ。
蚤の市。日曜午前しかやってないという広場に遭遇できて幸運でした。
腕まくりして、俊敏に快活に、効率的に満遍なくすべての店舗を巡る。ガラクタの中から欲しい物を見つける。日頃の断捨離精神を忘れ、蚤の市を見るために生まれてきたような顔をして。
おばちゃん店主が、日本人、好きでしょ知ってるのよ、と言わんばかりにマリメッコあるよあるよとすすめてくる。おばちゃんに言われなくても、視力と弁別力のよい私は8メートル先からマリメッコある店は分かっている。けど、マリメッコの古物って興味ない。
今回、気に入ったのはイッタラ社の天使の置物。
私、見つけるのは得意なんだけど、値段交渉はそんな上手くないので、びびりながら交渉。あとは1ユーロのムーミン皿とかミルクピッチャーとか、5ユーロのワンピースとか。
寒くなってお腹も空いたので、 ちょっと歩く。
数年前は1人でヘルシンキ来て、この海の向こうのスオメリンナ要塞に渡った。最果て感ありすぎて怖かったけど、一応大砲眺めたり、丘に登ったり、ウロウロしたな。
けど、この日は蚤の市堪能しすぎて、船に乗る時間はなかった。
旅行客でわいわい賑わう港でランチ。少し寒い外で食べるソルティーでオイリーな魚、最高でした。
とにかく便利なホワイトボード
ホワイトボードは私の仕事に欠かせない道具。どんな風に使ってるか、少し書いてみます。
フォニックス。スペリングを教えるのでなく、スペリングチェックの技術を身につけられるよう助ける。困った時に即座に書けるハンディさと、間違えてもすぐに消してやり直せるストレスの少なさが、ホワイトボードのいいところ。消しゴムで消すのもイーッてなる原因になるからね。
作文も、まずは内容をパラグラフごとにまとめ、全体像を把握できるようスキャフォルディング(骨組み作り)の方法を教える。今日うまい作文ができなくていいから、5年後に自分で書けるように。
本人に考えてもらうABCチャート。これは私の発明だと思ってるんだけど、似たようなことは認知行動療法とかでやってるんだろうか。
表出言語を鍛えるには、まず、場面と困り事を聞き取り、誰に話せばいい?何て言ったらいい?まずは準備、それから練習、で、本当に言いに行ってみる。言葉に詰まっても口頭で教えるのでなく、視覚的プロンプトにすれば、自分でできた感が増す。援助ありでも言えたらもちろん強化。ご協力してくれる先生方にも感謝を伝えて強化します。
定番、まずはこれがあれば落ち着く方が多い、スケジュールの視覚化。
ソーシャルスキルトレーニングにも。これは感情を表すボキャブラリーの導入場面。良い、悪い、その中間、、、とグレーゾーンも感覚的に位置でソートできる。
カウンセリングであちこちに飛びがちな出来事の振り返り話を、気持ちも聞き取りつつメモ。ビジュアルでエコーされると、話しやすくなるみたい。
算数にも。
口でごちゃごちゃ言われても、ぽかんとして一向に頭に入ってこない、という体験は私にもよくある。
なので、全然分かってなかった子が「おお!なるほど!」というような顔をして、それを見ながらひとり嬉々としてワークシートを仕上げ始めるようなビジュアルがあげられたときは、私も、良い仕事した!と思う。